第四回「清瀬」(東京都清瀬市)

前回「成田」を書いて以来、久しぶりの記事になります。
今日は東京都清瀬市西武池袋線清瀬駅に行ってまいりました。
清瀬駅に来たのはこれが3回目。1回目は5年ほど前に先輩の家に遊びに来たときで、2回目は去年、スリランカ人の知り合いの親戚がやっているというスリランカ料理のお店に妻と一緒に食事に来ました。
2回とも駅の南口だったのですが、今回は最初に北口に行ってみました。駅改札は駅舎の2階にあたります。下の写真は改札降りて北口方面へ向かう通路から見下ろした風景です。西武線の黄色い車両が見えますね。

北口は西友のビルへ渡り廊下が続いており、そこから見下ろした風景が下の写真です。きれいに区画整理されたロータリーとなってます。非常にきれいというか整然とした駅前の風景ですね。特徴的な駅か、と言われたらけっしてそんなことはないのですが、私はこういうどこにでもある風景が好きなんですね。



この間この関東ブログの仲間と飲んだんですが、その時に自分で話しながら気づいたことがあって、それは個性的じゃない、ということが僕には新鮮だってことですね。何が個性的かということの前提が一人一人違うのでこの言葉はその意味で不正確なんですけれども、街全体が、何かこう力が入っていないような雰囲気というか、有標ではなく無標であるというのが安心するんです。それは僕自身の郷里がこてこての観光地だったことも影響してるかもしれません。中上健次のエッセイで(『夢の力』でしたかね)、彼は絵葉書のような風景は見飽きていて、羽田空港近くの荒涼とした風景に心惹かれるというようなことが書いてありましたが、これは僕もよくわかるんです。
街がきれいとか、住みやすそうとか、そういうプラス要素も当然ありますけども、それより大事なのはその街に付加価値がほとんどつけられてない、というところに新鮮さがあるのかもしれません。

渡り廊下をまっすぐ突き当たると西友です。

何気に人の通りが多くて、写真もどうしても人が写ってしまうんですね。。。
顔がぼやけてるのを選んで載せてますが、肖像権関連で問題ありそうでしたらどなたか教えてくださいね。
清瀬というと少なくとも「都会」というイメージはないですが、人の往来は多くて全体的ににぎやかで活気が感じられました。私はさびれた町が好きなのですが、「さびれた」というのは何も人気がないということと同義ではないです。人が多くても「さび」は感じられます。
再度中上健次の話をひっぱてきますが、彼は郷里の和歌山新宮(紀伊半島全体の象徴としての新宮)との対比で京都(みやこ)を「みやび」としてます。「みやび」の対として「さび」があるのだと考えれば、僕が好きなのは「みやびな」町ではなく、やはり「さび」れた町であるのだと思います。何が「みやび」で、何が「さび」なのか、それはまだ僕自身もわかってはいないのですが、ゆっくりとでもそれを表現する言葉を探していけたらと思ってます。

西友に入ってエスカレータを昇っていくと、4Fに「趣味と図書館のフロア」なるものがありました。駅前に図書館があるというのはわかりますが、まさか西友の中にあるとは想像していなかったためちょっとびっくりしました。

4Fに着いてみると確かに図書館がありました。しかも図書館の向かいは本屋さんです。。。図書館と本屋が並んであるというのは不思議な気もしますが、しかし本好きな人が図書館に集まるわけで、また本好きな人は本をほとんど読まない人に比べて本にお金を使うのに抵抗がないでしょうから、本屋としてはいい立地条件なのかもしれません。

図書館の中に入ってみるとなかなかいい本が揃ってました。何より書架が整然としており、乱れ直し(本を本棚にきちんと収める、並べること)もぬかりなくやられているなという印象です。
図書館からエスカレータや向かいの本屋が見えるのは不思議な感じですが開放感がありますし、駅前の西友の中にあるというのは本当に便利なんだと思います。私の最寄駅の駅ビルにも西友がありますが、図書館があったらまず間違いなく通いつめますね。

おもしろい本があったので文献複写申込みをして20枚分コピーしてきました(ファジー理論の本ですが、なかなかいい本でした)。
いったん西友を出て、北口の写真を一枚撮りました。駅舎が低いので空が高く感じました。こういう眺めはいいですね。

次に駅の南口出口へと向かいます。
踊り場から南口が見下ろせたのでここでも写真を撮ってみました。
夕方で、家路につく人の姿が多いです。この、昼でもない、夜でもない微妙な時間帯というのはなぜかわくわくしますね。境界というんでしょうか、短い時間、すべてに対して開放されている感じがするんです。
境界というと「場」も大事だと思います。昔ロシア文学の授業を受けたときに、ドストエフスキーの『罪と罰』で、踊り場というのが事件の舞台になっているというような話を聞きました。踊り場も境界ですね、上の階でも下の階でもない境界、また部屋でもないが通路というわけでもない(確か『罪と罰』のソーニャの家族は廊下か踊り場の隅っこに無理やりに住んでたような記憶があるんですが違いますかね?)。
僕が今立っている踊り場もそうですし、昼と夜の境界ということも相俟って非常にいいボジショニングだなという感じがしました。


南口を降りて商店街に入っていきます。結構大きな商店街(というか『通り』)です。
気づいたのが、この商店街、妙に焼き鳥屋が多いんです。肉屋さんが店前で焼き鳥を焼いて売っているのもありますし、小さなブースの焼き鳥屋さんもありますし、下の写真の「シカゴ チキン」というお店などお客さんが並んでました。「シカゴ チキン」の「シカゴ」が何なのか疑問に思ったのですが、お店のおじさんがテンガロンハットをかぶって焼き鳥を売ってましたので何となく「それでシカゴかー」と納得してしまいました(今思うとなぜ納得したのかわかりませんが)。焼き鳥屋は主婦や女子高生が買っているのが目につきました。いい匂いなんですこれがまた。
もちろん、居酒屋の焼き鳥屋もたくさんありました。そちらはまだ日が暮れないうちからお父さん方がいい感じで一杯やってました。


焼き鳥屋でビールをあおるのもいいかなと思ったのですが、今日は久しぶりにスリランカ料理『ニルヴァーナ』に行きたかったのでわき目もふらずに写真にある紫の看板を目指していきました。

今日はスリランカ料理ではなくインド料理、ラム肉のカレーをナンでいただきました。トマトの酸味が食欲をそそります。おいしかったですよー。

カレーを食べて駅へと戻る途中、銭湯を発見しました。思わず入っていこうかと思いましたが、これから自宅に帰ってから用事があったので断念しました(ほんとに銭湯行きたかったですねー)。
この銭湯、狭い路地にあって玄関の目の前がコインランドリーだったんですが、この狭い路地の先に焼き鳥屋や小料理屋が軒を連ねてたんですね。そこの焼き鳥屋は戸や窓は全部開けられてて、店の中が全部見えるような感じだったんです。海の家みたいな感じで開放的に見えました。銭湯で温まってさらに涼しい風にあたりながら煮込みとビールなどやってみたいものです(今回の清瀬行きで自分の行動パターンが完全に『おやじ』であることを再認識しました。でもいいんです!)。


商店街から少し外れると道路工事の現場でしょうか、広場のようになってました。車もほとんど通らないので子供たちの遊び場や主婦のたまり場のようになってます。
人やお店が集まって活気があるのはほんの一部、少しそれるとさびしい感じになります。しかしこれが普通の町の姿だと思います。
仕事が23区内なので新宿や池袋を歩くことが多いのですが、それらの街は常に増殖を続けて、こういった遊んでいる土地というか場所があまり見られないですね。生き残りが厳しくて、雑誌やテレビで取り上げられることが多い23区内のお店はそれは特徴的・個性的なところが多いでしょう。少なくとも清瀬のお店は雑誌に取り上げられるようなお店はほとんどないでしょうし、そもそも清瀬という町のタウンガイドはないですよね(少なくとも全国版では)。しかしそこがいいと思います。常に膨張を続けていかないと死んでしまう都心部とは違う背景を持って、僕の中の何かをひきつけてやまないものがこういう町にあるのは確かです(何度も言いますがその何かはまだうまく表現できていません)。

時間もせまってきたのでいそいそと帰路につきます。
まだ完全に夜になりきっていない薄闇です。このぐらいの明かり、すごくいいですね。
今回の清瀬では「境界」というのを妙に感じました。「みやび」な町はもちろん境界などではなく中心なわけですが、中心にあるものほど個性的でなければ生命を維持できないものかもしれない、という比喩が浮かびました。では境界にある町は?ということですが、清瀬がその境界にあたる町かどうかはわかりませんし、おそらくそれは質問自体が不適切なんだと思います。境界というのは固定されえないものです。「この町は境界です」と言った時点ですでに境界でなくなっている、そういう類のものだと思います。

駅の下りホームにて。上り線を見ると、今日開業したという副都心線に接続する車両が見えました。『渋谷』行き、これに乗れば渋谷に行けるのかと思うと不思議な感じです。僕にとって渋谷や新宿、池袋はやはり「みやび」、「都(みやこ)」の存在、その対として「さび」なる場所があるわけですが、それは清瀬という町というより清瀬を訪れた僕の心象風景なのかもしれません。
長くなりましたのでひとまずこれで。


(あ)

第三回「豊四季」(千葉県柏市)

■「たけさと」→「とよしき」


常磐線で柏まで行き、柏から東武野田線大宮行きに乗り換えて一駅、「豊四季」へ。

豊四季一帯は明治2年(1869)に東京から移り住んできた人たち(wikipedia豊四季駅」によると、三井財閥系の開墾会社)によって開拓された13の新村の一つで、開墾順序がそのうちの四番目だったことから豊「四」季と名付けられたといいます。

豊四季駅のある東武野田線は、都心のターミナル駅に直結しておらず、その路線のすべてが郊外のベッドタウンを走っています。各駅停車しかないこともあり、都心へのアクセスに時間がかかり、沿線の駅(とくに野田市駅など)は他の東京30キロ圏内の町に比べて発展が遅いなどの問題もあるようです。

豊四季駅は、柏駅つくばエクスプレス(TX)の新駅「流山おおたかの森駅」の都心に直結する二つの路線の駅に挟まるように存在しています。東京へのアクセスを考えるとそれほど不便ではないはずですが、わずか一駅でも乗り換えが必要ということは、それなりに不便でもあります。



改札は北口のみ


豊四季駅北口周辺には、東武のスポーツクラブ、コンビニが道を挟んではす向かいに二件ある他、本屋、中華料理屋、整骨院などがあります。江戸川大学が近くにあることもあり、駅の利用者には学生が目立ちますが、柏に近く、豊四季駅周辺で遊んだり時間を潰すということはあまりなさそうです。



改札正面からのびる道沿いには、学生向けのアパートがいくつかあるほか、美容室、コインランドリーなどがありました。さらに進むと、大堀川の土手沿いに緑の広がる一帯が見えてきます。ちなみに豊四季駅周辺は柏市流山市との市境になっており、この辺はすでに流山市です。



大堀川から江戸川大学へと続く道沿いには農家や畑が多くあり、農作業着姿の人や、野菜の無人販売所なども見かけました。この道をさらに行くと柏の葉地区(柏市)があります。なぜか犬を散歩させている人とよくすれ違います。


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大堀川を流山おおたかの森駅方面にしばらく歩くと、左に少し入ったところに「東映団地」と書かれた看板があり、武里団地のようないわゆる集合住宅の団地を想像したのですが、きれいに整理された区画に一戸建ての家が建ち並ぶ、住宅地でした。その東映団地を抜けると、ヤギがいました。



ヤギにやる適当な紙も持っていなかったため、そのまま流山おおたかの森駅方面に向かいました。この辺も流山市です。開業して3年の新駅の周りにはマンションや商業施設が建ち、今も周辺で工事が進んでいます。隣接するこの駅周辺の開発は、豊四季駅周辺に住む人の生活にも様々なレベルで影響していくような気がします。




更地が多く、これから造成されるのかもしれません。


東武線の線路を南側に渡り、再び豊四季駅方面に向かいます。東武線の線路とほぼ平行するように走っている道沿いには、おそらく新駅開業にあわせてできたであろう「おおたかの森病院」や薬局、また「ファッションセンターしまむら」や「ベルクス」などの駐車場を備えた郊外型の商業施設が並んでいました。また、同時に古くからあるであろう個人の商店などもいくつかあります。下校途中の小学生が準備中のレストランの中をのぞいたりしていました。


そのまま豊四季駅南口交差点に出ると、きれいに舗装された歩行者道路に沿って新しいマンションや一戸建て住宅が建ち並ぶ、北口とは異なる、より整理された住宅街になっていました。この辺も柏市流山市の市境になり、南口交差点より南側の辺りから流山市になります。



マンションはこの逆、柏市側にありました。


南に続く道をその勾配に従って降りて行くと、駅から離れたところではまだそれほど住宅地としての開発は進んでいないようで、森や畑が広がる一帯に出ます。



少し高台から住宅街のある方を望むと、一戸建ての家が道路沿いにきれいに並び、その奥にも同様に建ち並んでいるのが見えました。犬を散歩させている人をまた見ました。



日も傾いてきたのでそろそろ豊四季駅にもどり、そのまま帰ろうかと思ったのですが、北口から歩いたときに行き忘れていた諏訪神社が気になり、参拝だけ済ませることにしました。



諏訪神社は平成十八年に御鎮座壱千二百年になりました」


思っていたよりも敷地は広く、深い森の中に神社本殿があります。当ブログが末永く続くことを祈り、豊四季駅に戻ることに。



夕方の豊四季駅柏方面行きホームには学生が多くいました。


TX流山おおたかの森駅付近(住所的には流山市西初石あたり)は現在進行形で宅地化、郊外化が進んでいる一方、豊四季駅付近は既にそうした変化をある程度終えたような、ひと段落着いたような、少し「止まった」印象を受けました。隣接する新駅周辺の地区の開発の音が少し遠くに聞こえるような、ある種の距離感というか…。もちろん南口付近や北口方面にも新しいマンションや住宅が建ってはいるのですが、住宅地の中の旧市街的な(この場合農村的な)景色はそれらの宅地の「新しさ」をどこかくすませてしまうというか、新駅寄りの更地のような「なにもなさ」とは違うものでした。また同時にそのような「なにもなさ」に変化することを拒むような、ある強さを感じるものでもありました。

入り組んだ市境にあるということも影響しているのかもしれませんが、やはり豊四季駅周辺の町は、ただのどかというだけでなく、どこか取り残されています。その取り残されるということが、この町にとっていいことなのか悪いことなのかはわかりません。
(た)

第二回「武里」(埼玉県春日部市)

■「なりた」→「たけさと」

北千住から東武伊勢崎線区間準急に乗り、春日部の二つ手前の駅「武里」へ。

竹の塚を過ぎ、草加を過ぎ、新越谷くらいまでは車窓から見える景色にそれほどの変化はないように感じます。駅前には中層ビルやデパートなどが並び、駅を過ぎると住宅街となり、高い建物もそれほど見えなくなり、フラットな景色が続くような、都心からそれほど離れていない郊外の町並みです。北千住から乗った乗客は、越谷あたりまででほとんど降りてしまいました。

北越谷を過ぎると、線路は高架から地上に下り、駅舎もローカルなものになります。地上を走るせいか、それまでの景色よりも建物と建物の間に余裕があるように見え、どことなく土っぽい「関東感」が強く漂います。


武里駅に着き、改札を目指し階段を上ると、ガラスケースに陳列された「かすかべの特産品」コーナーがあります。中には桐箱、帽子、羽子板などが飾られていました。



改札を抜けると、薄暗い構内にお店が並んでいました。マックと床屋と、その奥に本屋があります。



やみくもに武里に来たので、駅周辺の地図を見て、当面の行き先を決めます。西口に「武里団地」がありました。



とりあえず「武里団地」に向かうことにして、西口に出ます。




駅前のロータリー。



広域避難場所の地図を見ると、武里春日部市越谷市の境にあるようです。



西口から団地に向かう途中に「平成通り商店会」があります。

平成通り商店会には、ラーメン屋、そば屋、喫茶店、和菓子屋、本屋、コンビニ、ショップ99、花屋、銀行、美容院、薬局、整骨院などがあり、ひと通りのお店が揃っているようでした。シャッター通りというほど、閉まっているお店もなかったような気がします。ただ、平日の午後ということもあり、賑やかさはありませんでした。



平成通り名店会を抜けると、団地の入り口です。



かなり巨大な団地です。

武里団地(たけさとだんち)は、埼玉県春日部市大枝にあるUR賃貸住宅。最寄り駅は、東武伊勢崎線せんげん台駅武里駅。 1963(昭和38)年竣工、1966(昭和41)年より管理開始。現在の総戸数は6,219戸(賃貸5,659戸 分譲560戸)。棟別戸数は1街区 1380戸、2街区116戸、3街区966戸、4街区414戸、5街区560戸、6街区1176戸、7街区111戸、8街区810戸、9街区586戸。住居は、中層棟が中心で、数棟だけ高層棟も存在する。ボックス型ポイントハウスもある。2006年に、外壁が塗装し直された。団地内に行政・社会福祉機関が存在する。(Wikipedia)




団地の真ん中を走る目抜き通りに沿って歩いていくと、通りを挟んで両脇に「武里団地名店会」の看板が見えます。こちらは駅から歩いて来て、左側に見えた名店会。



看板横の階段を上がって二階から眺めた広場。その両脇一階部分が名店会。



開いていたり開いていなかったり。


団地の敷地内には名店会の他に、医者、学校、保育園、図書館、郵便局、福祉施設、公園など生活に必要な施設がほとんど揃っているようでした。これだけ広いのだから当然かもしれませんが。ニュータウン的な便利さというか、団地の中だけでひとつの完結した地域社会を形成しており、練馬の光が丘のように、町として機能しているような感じです。お店はシャッターを閉めているところも多く、かつての賑わっていた頃の姿をしのばせもしますが、不思議と寂れきっているといった印象は受けませんでした。平日の午後ということもあって、敷地内を歩いている人は、老人、子供、若い主婦の方がほとんどでしたが、緩慢とした時間が流れ、これはこれで、何かひとつの充足した世界のように思いました。寂れた印象を持たなかったのは、そのせいかもしれません。閑散としていても、あまりネガティブな印象は受けませんでした。もちろん、実際に住んでいる方たちはまた異なる感じ方をしているかもしれませんが。



緑も多く、やはり効率的な生活空間です。



どこまでも団地が続いています。



敷地内の一角で、八重桜が満開を迎えていました。団地の住人の方か、ご老人がベンチに座ってお花見をしていました。



三時頃、町内のスピーカーから「春日部市役所からのお知らせです。良い子のみなさん、事故に遭わないよう、気をつけてかえりましょう」というアナウンスが流れてきました。



Wikipediaにあった、ボックス型ポイントハウス。べつに団地マニアではないので、このような形の建物が公団住宅には割とポピュラーだということを初めて知りました。



郊外から郊外へ。


団地を歩いたあとは、武里団地のない武里も見てみたいと思い、再び駅に戻り、東口方面に向かうことにしました。来るときには気付かなかったのですが、団地の入り口のそばに、新しい建売り住宅の建ち並ぶ一角がありました。武里の町を構成する、団地とは異なる生活の層です。




これも来る時は気がつかなかった、古そうな倉庫を利用した、何か。



東口にも商店会がありました。武里では商店「街」ではなく「会」がメジャーなようです。道の両側に焼き鳥屋やスナックといった、飲み屋が並んでいます。
この看板から少し行ったところで、向かいから来た十代後半くらいの少しゴス系の格好をした女の子が突然、誰に言うともなしに割と大きな声で「さてと、歌のレッスン行くか!!」と叫んでいました。



飲み屋の多い通りをさらに行くと川があり、橋を渡るとしばらく住宅街が続いているようでした。


もう少し普通の町並みの中を歩きたい気もしたのですが、団地内を割と歩きまわったおかげで疲れが出てきたのと、平日の夕方にカメラ片手に住宅街を歩くことのリスクを考え、駅に戻ることにしました(人の生活圏に立ち入るということは、その内側に暮らす人たちにある種の脅威をあたえることにもなりかねません。町歩きの際はそうした点で気を使う必要があるように思います。とくに都市的な場から離れれば離れるほど)。


郊外の住宅街自体はどこもそう変わらないかもしれませんが、その住宅街の置かれた環境や歴史は、様々なはずです。武里の住宅街は「団地のある町の団地じゃない町」として存在しており、一つの駅を中心とした生活圏の中に、団地とはまた異なる町の層を形成しています。そうした町の層の現れ方は、町々で異なり、そこに住んでいる人の意識や身体の在り方にも深く作用しているような気がします。私たちに影響する町の様々なかたち(そしてそこに住む私たちの生活)こそ、関東の町歩きで見、そして何よりも肯定したいと思うものでもあります。

(た)

第一回「成田」(千葉県成田市)

早咲きの桜も散った4月中旬、成田に住む友人から沖縄料理屋での民謡ライブを依頼されて日暮里から京成スカイライナーに乗って京成成田駅に向かいました。

※私は趣味で沖縄の三線をやっておりまして、たまにこうやってライブをやったりしてます(趣味ですのでこれで生計はたててるわけではありません)。
花曇というのでしょうか、写真の通り灰色の湿った空気で、駅前周辺もどことなくもの悲しい感じがしました。

JR成田駅京成成田駅から歩いて数分のところにあります。ついでに駅前まで行って写真を撮ってみました(↓)。

ライブをやる沖縄料理屋は京成の線路沿いの一角にあります(↓)。トイレの手洗い場の窓から京成の走っている車輪が見えるという近さです。まさにガード下ですね。


せっかく成田まで来たので近隣の駅、特に東京〜成田間以外の駅に行ってみようと思い立ちました。京成は空港行きになってしまうのでJR成田駅から成田線で銚子行きの電車に飛び乗りました(全く考えなしです)。「銚子」行きの掲示が夜のように明るく灯っているのが何ともいえずよかったです。

銚子行きの電車のドアは1両に1つだけ開いていて、他はボタンで利用者が各自開閉するというタイプでした。閉める時は電車のドア脇の大きいボタンを押すと「プッシュー」といって閉まります。非常停止ボタンを押しているようで最初は抵抗ありますが、地元の高校生やおじちゃん、おばちゃんとかが何気なくボタンを押して乗り降りするのを見てると何かこれはこれでいい光景だなと思いました。電車に乗っているというより待合室に入ってきているような気がして、待合室独特の奇妙な連帯感とでも言いますか、別に誰と話すわけでもないですが居心地よく感じられるのでした。
電車に乗り込んで20分後、電車はゆっくりと走り出しました。
↓は走り出してしばらくたった車窓の光景です。まだ成田市街地からはそんなに離れてないはずですが、少しずつ畑が多くなってきます。

↓は成田線久住駅滑川駅の近くです。一面田んぼで綺麗な風景です。久住駅滑川駅までは成田市になります。滑川駅利根川沿いになります。川沿いということで非常に平たい土地になっているのだろうと思います。

遠くまで田んぼが続いて見えて、非常に見通しがよかったです。天気が良ければもっと見やすい写真が撮れたかもしれません。ただ、こういった田園風景はうす曇りの方があうと思います。
近くにある一軒家、引き戸をガラッと開けて入ると電気もつけずに暗い台所や座敷があってそこで日常生活を営んでいるという光景を想像してみると、これはやはり薄曇りが一番しっくりくると思うのです。
谷崎潤一郎の『陰影礼讃』、その世界観の一端がこういう田園風景、そして田園地帯の各家々に今もある気がします。

水というのは命を育むものの象徴ととらえると、利根川水域のこの周辺というのは昔から豊かさの象徴、そして同時に江戸の陽に対する陰の部分を抱えてきている気がします。利根川は家康以前は東京湾に注いでいたものを家康が太平洋側に移しました。江戸幕府の治水事業の目玉ですが、そこに現代は成田空港という国の玄関口が構えられていることは偶然かもしれませんが、私には何かしら符合のようなものがあると感じられます。
関東ブログの始まりにあたってあえて成田を選んだということではなくてたまたま私に成田に行く用事があったというだけですが、いろいろと考えるところが多く、いい機会だったなと思います。
成田駅に帰って駅前を歩いていると偶然に成田の地元の人達がエイサー(沖縄の盆踊り・太鼓踊り)を披露してました。最近は沖縄県外でもこういったサークルが本当に多いらしく、丁度ヨサコイのように純粋にダンスパフォーマンスとしてこれからも増えていくのだろうと思います。そのうち町の祭での恒例行事になる日も近いかもしれません。
いろいろあった成田行きでしたが、ひとまずこれぐらいで終わりたいと思います。

(あ)